シミとりレーザーと椎間板ヘルニアの因果関係 〜その2〜

朝早く、下半身に走る激痛で目が覚めた。

とにかく痛いので、寝ている母を起こそうと立ち上がろうとするけれども、立ち上がることすらできない。あらゆる家具につかまりながら、壁をつたってやっとの思いで前に進んだ。

何が起こっているのかわからないが、その日のうちに広島へ帰って月曜日にはBJに行かなければならない。私はどうやったらまともに歩けるようになるかを考え、激痛の中ストレッチをしたり、風呂に入ったりした。それは一番やってはいけない行為だったと後に知る事となった。

痛みはひどくなる一方で、まっすぐ立って歩く事は不可能だった。止める両親をふりきり、昔使っていたスキーのストックを杖代わりにして、座っていても激痛が走る体をひきずり新幹線に乗った。その日に限って、プラットホームへのエスカレーターとエレベーターが工事中で、長い階段をてすりにしがみつき、斜めになりながら登った。駅員さんが心配してかけつけてくれた。「車イスでかかえていきますよ」と言ってくれたが辞退した。

母は後に、10円玉大のカサブタを顔につけ、杖をついた娘が新幹線に乗る姿をみて、涙がでてきたともらした。
東広島駅には美和ちゃんが迎えに来てくれていた。私の姿を見て「戦争から帰って来た兵隊さんみたい」と言った。私はおかまいなく「明日に差し支えるといけないから、とりあえず井口病院に連れていって」と言った。
病院に着く頃私は、杖があっても歩けない状態となっていた。車いすにのり、診察を待った。

先生が痛み止めの注射を打ってくれたが、全く効き目はなかった。
「入院しますか?」
「いえ、明日から仕事なのでしません。」
「仕事は無理ですよ。家に帰っても、きっと困りますよ。」
とりあえず言われた通り入院した。先生は正しかった。翌朝からは、激痛がさらに悪化し、上半身すらまともに動かす事ができなかった。美和ちゃんはその時の私を「1ミリも動けない」と上手く表現していた。

感心している場合ではなかった。それから2週間の入院生活が始まった。